少しご無沙汰してしまいました。
1週間ほど、忙しく過ごしておりました。
朝は4時に起床して自分の時間を確保したり、ゆっくり朝食を作ったりしていたのですが、疲れがたまるのに伴い、少しずつ起きるのが遅くなり・・
と、言っても5時には起きていましたが、実はいつもブログを書いていた時間で、あることをしていました。
ずばり、掃除です。笑
特別な大掃除をしていたのではなく、毎日、同じ場所を雑巾で磨き続けました。
理由は、この本に影響されたから。
そもそも、私が「禅」に興味を持ち始めたのは、私のバイブルの一つでもあるドミニック・ローホーさんの『シンプルに生きる』を読んだことが始まりでした。
フランス人であるドミニックさんは旅先のアメリカで禅庭に初めて出会ったとき、その美しさに衝撃を受け、その後の人生が大きく変わっていたことを著書の冒頭で述べています。
ものを過剰に所有することをやめ、すでにある変哲のないものに喜びを見つけ、味わうこと。
私自身は、断捨離やミニマリストという言葉に出会う前に、この本と出合っていますが、とても感銘を受け、こんなにも素敵な本を書かれるドミニックさんの人生を変えた「禅」について、学んでみたい、とずっと密かに思っていました。
今回手にした、桝野俊明さんの本は、先日、日帰りで名古屋に行く機会があり、新幹線を待つ数分の時間に書店で手に取ったのが出会いでした。
自分が欲している出会いは、心配しなくても必要なときに向こうからやってきてくれるのだな、、と思いました。
この本を読んだことで、自分の中の「禅を学びたい」という気持ちに火がともり、先日ブログで紹介したアプリを使って、禅に関する本を片端から予約しました。
今手元に届いた本はこの2冊
心を磨くために、無心で掃除をする
本の中で最も感銘を受けた一文をご紹介します。
禅寺では、毎日朝と事あるごとに掃除を行います。
(略)
徹底した掃除を一日に何回も行っていますので、塵や埃はほとんでつきません。それでも、修行僧たちは念入りに掃除を行います。掃除は汚れたからするものではないからです。
掃除とは、自分の心を磨くためのもの。唐時代の百丈禅師は、掃除を座禅と同じくらい大切な修行であるとしています。
また、こんな風にも書かれています。
廊下を磨くときは、廊下を磨くことだけ。庭を掃くときは、庭を掃くことだけ。
修行僧たちは、今自分がしている掃除に没頭し、掃くことや磨くことそのものになりきっているのです。
「なんで自分ばっかり」などと思いながら行う掃除は、楽しくもないし、ToDoでしかない。
でも、無心で手を動かしているうちに、「床を磨くこと」そのものになれたとき、掃除が苦役ではなく自分の心を磨く修行になる、と本が教えてくれました。
また、頭であれこれ考えるのではなく、まずは行動することを禅では大切にしています。
修行とは、「行」を「修めること」です。
私も、あれこれ考えるのではなく、何はともあれ、朝起きたら窓を開け、着替えもそこそこに目の前の廊下や階段を磨く1週間を続けてみました。
まだまだ、始めたばかり。
物事が習慣として定着するには、最低でも100日続けることが必要といいますが、1週間やってみて、毎朝とても清々しい気持ちを味わえるようになったことは紛れもない事実です。
私は影響されやすいから、ということもありますが、「汚れているのから掃除をしなければならない」という考えを捨て、誰のためでもなくただ黙々と手を動かすことで、結果として自分が磨かれる、と思うだけで、進んで雑巾がけをしたくなるから不思議です。
この習慣を100日続けたとき、少し自分が変われているといいな、と思います。
禅はとても奥が深く、そして学ぶごとに心が静かになっていくのを感じます。
都内でも、座禅を教えてくださる「座禅会」を定期的に開いている禅寺があるようなので、機会を見て是非参加してみたいと思っています。
ご興味のある方はコチラのHPもどうぞ。
情報があふれ、忙しくたくさんのことをこなしていかなくてはいけない現代だからこそ、静かに、穏やかに、広く物事を受け止めることのできる「自分」を持ちたいと思っています。
今日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。